曲の軌跡
被災から曲が生まれるまで
浪江町出身 牛来美佳より
2011.3.11東日本大震災。大地震に大津波、増して福島県では原発事故が発生しました。
浪江町は全町民強制避難指示区域となり、当時の人口約2万2千人の町民は散り散りになったそれぞれ場所で突然の避難生活が始まりました。数日で帰れると思い、殆どの人が着の身着のまま。津波の影響を受けた助けられたはずの命も、捜索打ち切りの現実は沢山の心を締め付けました。
飼い主を待つペットの命も…。全町民強制避難が生み出したのは思っている以上に無残で、なす術がない無力さを突きつけました。
私は、それでも生きてゆかなくてはならない現実が存在する中で、どうしても伝えなくてはならない思いを抱き、シンガーソングライターとしての活動をする決意をしました。
約2年後、震災直後には安否確認の連絡を取り合っていた作曲家の山本加津彦さんに浪江町の写真アルバムを作り送りました。そのアルバムには震災前と震災後を比較するようにぎっしり伝えたい言葉を綴り、とにかく伝えなきゃという気持ちと共に「浪江町を想って曲を作って欲しい。」とお手紙を添えて送りました。
そして後に完成したのが一緒に作っていただいた「いつかまた浪江の空を」です。
浪江の子供たちと録音
2015年「いつかまた浪江の空を」の子供たちの歌のレコーディングをしました。
歌ってくれたのは当時、福島県二本松市の仮校舎で開校されていた、浪江小学校・津島小学校に通う浪江町の子どもたちでした。
震災前、浪江町に6校あった小学校には約1330人の生徒たちが通っていましたが、全国各地へ散り散りになってしまい、この時点で仮校舎に通う生徒はたった21人でした。
教室で子どもたちと色々話しました。「浪江町に帰ったら何がしたい?」という質問には、「ちゃんとお家で家族でご飯食べたい。」、「みんなでこの曲を一緒に歌いたい。」という答えや、想いが詰まって涙を零す子どももおりました。
小さな子どもたちにとっても浪江町は大切な故郷で、本来の家族の場所と感じると共に、浪江の空の下で逢いたい笑顔が浮かびました。
あれから7年。
今回の音源(牛来美佳オリジナルVer/浪江女子発組合カバーVer、共に)には、当時の子供たちの歌声をそのまま収録しました。
当時小学1年生だった7歳の子たちは今年で14歳、当時小学6年生で12歳だった子たちは今年で19歳。震災を乗り越えて強く逞しく、それぞれの場所で笑顔で過ごしていることを願います。
あの時、子どもたちがアカペラで「いつかまた浪江の空を」とタイトルコールのように歌ってくれた声が今も傍で鳴り響いています。
震災10年目の浪江町
浪江町出身 牛来美佳より
浪江町は一部を除いて2017年3月31日の午前0時に避難解除となりました。
震災から約6年後のことです。長期間に及んだ強制避難はそれぞれの地でやっと基盤が整い始めた生活がある為、それを機に戻らないと決めた住民が殆どで、またお子さんがいるご家庭は尚さらです。それでも浪江町は新しいカタチとして復興中で、現在はだいぶ解体が進みました。当時は建物や民家の存在で見えるはずがなかった場所から遠くを眺められるような見晴らしが存在します。新しいカタチで復興に向かっている風景と、数多く存在する更地を見て「ここも無くなってしまったんだな…。」と思う気持ちと複雑に思う気持ちが同時に現れます。
きっとそれぞれの場所で過ごしていく時間も心の中では同じようにあの頃の浪江町や懐かしく想う人びとを描いて、今日もそれぞれの場所で生きて行くことでしょう。そしてそれは決して後ろ向きなことではなく、強制避難が生み出した現実としっかり向き合っている現実であると受け止めています。
何十年かかっても、百年かかっても浪江町にごく普通の日常が溢れ、人びとの笑い声や笑顔が溢れることを信じて待っています。
いつかまた浪江の空の下で沢山の人々たちが再会に喜びを分かち合う姿を想像してこの歌詞の最後に綴ったように、どこまでも歩いて、これからの浪江町の復興に希望を添える大切なひとつでありたいと思います。
合唱で応援企画
全国各地のみなさん合唱で一緒に歌い応援してください。
震災から10年の時を経て「いつかまた浪江の空を」の合唱用譜面が完成しました。
東日本大震災の記憶が薄れる中、当時を知らない子供たちがこの曲を歌ってくれることにはとても意味があります。
たくさんの方に歌っていただけるよう、楽譜を無償でダウンロードできるようにしました。
ぜひこの機会に思いに触れていただければ嬉しいです。
学校関係の皆様、全国の合唱団の皆様
いつかまた浪江の空を」合唱で応援企画では、皆様が歌ってくれた動画をこちらのページで紹介させていただきます。
Youtubeに上げていただき、以下の内容を下記応募ボタンから送ってください。
・YoutubeのURL
・地域(都道府県)
・団体名(学校名/合唱団など)
・メッセージ(50文字以内)
<募集受付期間>
2022年3月11日~2023年3月11日まで
<掲載>
募集いただき次第、随時掲載予定
今後、同時合唱などの企画も検討しています。
メッセージ
牛来美佳より
― どうしたら伝わるの…? どうすれば伝わるの…?―
私は、福島県浪江町の出身で、3.11あの東日本大震災の日、福島第一原発所内の協力企業の社員として働いていました。
大地震、大津波の甚大な被害もそのまま、着の身着のまま全町民強制避難区域に指定され、散り散りに突然の避難生活が始まりました。
人が住めなくなったふるさと浪江町。震災から数年経っても手つかずだった景色に広がるのは荒れ果てた町並みで、まさに時間が止まったままの町でした。ただただ存在だけしている姿に虚しさを覚えたことを忘れません。何ともない当たり前の日常が愛おしく、やり切れない想いととてつもない悔しさは「伝える為に歌い続ける」という強い決意へと向かっていきました。沢山の失ったモノだちが教えてくれたのは、― 想いを綴って歌うこと ― 震災後にシンガーソングライターとしての道を歩き始めました。
音楽活動する中、そんな想いをどうしても伝えたくて、震災前、私も主催の一員として携わっていた浪江町のミュージックフェスで知り合った作曲家、山本加津彦さんに震災後お願いをして一緒に曲を作って頂きました。録音が完成した2015年、当時二本松市の仮校舎で開校された小学校に通う浪江町の子どもたち21人がコーラスで参加してくれました。
どんな時も諦めずに歌い続けてきて震災から11年目、曲が完成して7年、素敵なご縁と出逢い、より多くの方にお聞きいただける機会に巡り合えたこと、とてもとても感謝しています。
そして今回、大切なファーストアルバムにカバー収録してくださった浪江女子発組合の皆さんの歌声に乗せて更に広がっていくこと、また、合唱譜を無料ダウンロード出来るようになっていますので合唱曲としても歌っていただきたいです。もし可能なら、私も出張参加して皆さんと想いを一つに出来たら、こんなに嬉しいことはありません。
震災から幾つもの時が経とうとも心の中に描く元の未来はずっと続く。それは現在の浪江町と並行して生き続けるモノだと感じています。
いつかまた浪江の空の下で逢いたい笑顔がある。だから私は歌い続けていきたいと思います。
「浪江で逢おう…。」
山本加津彦より
2011年の東日本大震災から、一年くらい経った頃でしょうか
原発事故で浪江町から群馬に避難中の牛来美佳さんが、僕のところに一つの写真アルバム
を送ってくれました。
そのアルバムは、卒業アルバムよりも分厚く、中は全て浪江町の写真でした。震災前と震災後の写真でした。
写真一枚一枚に丁寧に文章が書かれていて、それぞれの写真に映っている場面に対する、牛来さんの思いが綴られていました。
自分の生まれ育った故郷が、震災ではなく、人災により、あの日から時が止まったまま、放置されている現状。
そして、その町が忘れられて行く危機感と、それに反して今も続く、悔しくて、悲しい出来事達。
そんなやり場の無い気持ちと共に、浪江のための曲を作ってくれませんか、という手紙が入っていました。
震災前に遡りますが、2009年、僕は町の音楽祭で浪江の皆さんに呼んで頂き、街の広場に演奏しに行きました。偶然にも、僕が作曲した曲をカバーしてステージで歌っている地元の人がいて、それが牛来さんでした。
その日は本当に奇麗な空で、広場や請戸の海から見える空が広くて青くて、、そして、浪江のみんなが最高な笑顔を見せてくれた日で、とても大切な思い出の場面になっています。
あの場所で、また、みんなで同じ空を眺めながら、歌が歌える、そんな場面を夢見て、みんなで手を繋ぎ、歩いて行きたいと思い、牛来さんと一緒にこの曲を作りました。
東日本大震災から11年の時を経て、改めて音源化され、合唱用譜面も作っていただきました。
震災の記憶が薄れる中、当時を知らない子供たちがこの曲を歌ってくれることにはとても意味があります。
ぜひこの機会に思いに触れていただければ嬉しいです。
作詞・作曲家 山本加津彦
佐々木彩夏さんより
「いつかまた浪江の空を」をカバーさせていただいてる浪江女子発組合のプレイングプロデューサーを務めさせていただいてます、佐々木彩夏です。
私たちは浪江町を中心に活動させていただいておりますが、実際に浪江町出身のメンバーがいるわけではありません。
今回アルバムを制作するにあたり、実際に浪江町出身の方のメッセージもこのアルバムに込められたらなぁと思っていたところこの楽曲に出会いました。
とても優しく強いこの楽曲を歌うのは緊張しますが私たちなりに表現しました。
少しでも多くの方にこの楽曲が届きますように。
これからも大切に歌わせていただきます。